見えないけどわかるもの
笑っちゃう 視力検査で 先生が
近づいてくる 徐々に徐々にね
眼科にいって、視力を測ってもらった。
コンタクトレンズの処方箋をもらうためだ。
久しぶりに裸眼の視力測ったら、右が0.03で左が0.02だった。
先ほど詠んだ短歌のように、視力検査で一番上が見えないと、先生がランドルト環が書かれた紙を持ってだんだん近づいてくるのだ。
小学生に入ったころから徐々に悪くなっていき、 小5で眼鏡を作った。
でも、年頃の僕は眼鏡をかけることが恥ずかしくて、黒板を見るとき以外は裸眼でがんばっていた。
中学生になり、テニス部に入った。
視力低下は進行していき、ボールが1メートル手前に来るまで見えなくなってやっと、裸眼の限界を感じた。
そこから僕のコンタクト人生が始まったのだ。
はじめのほうは視力の低下が嫌で仕方なかったが、もうこれだけ悪くなるとどうでも良くなる。
雨に濡れたときと同じだ。
最初は濡れるのが嫌で雨をなるべく避けそうとするが、ある程度濡れてしまえばもう傘もなにもいらない。
むしろ雨に打たれるのが気持ちいいとさえ感じるだろう。
見えないことに変わりはないのだから、どうせなら振り切りたくなる。
そしてなぞの目悪い自慢が始まる。
これは目が悪い人あるあるかもしれない。
コンタクトレンズは度数が強ければ強いほど、書いてある数値が大きくなるのだが、その大きさで張り合ってみたり、
人の眼鏡をかけて、
「あー、意外と強いじゃん。俺と同じくらいかも」
「そーなんだ。あっ、でもそれずいぶん変えてないから今はもうちょい度数強い方がいいんだよねー」
というバトルが勃発する。
視力が0.02だと(ここでちゃっかり悪い方の視力をいうあたり、僕も目悪い自慢をしたいのだろう。しかも正確な左目の視力は0.025だ)まわりの景色は水彩画に水をぶちまけたような感じになる。
色はわかるが、細かいことはほぼわからない。5メートルくらい離れると人が何人いるかも判別不可能だ。
あとは経験と想像で補うのだ。
眼科で呼ばれるのを待っているとき、向かいに父とベビーカーに乗った息子が座っていた。
距離にして1メートルちょっとだろうか。二人の表情は全く見えない。見えないけれど、不思議とわからなくはないのだ。
親子が笑っているということが。
見えないけどわかるものってあるのだなあと思った。
ちなみに眼科の先生とは裸眼の状態でしか対面していないので、顔は見えなかったしわからなかった。
ただひとつ言えるのは、きれいな女の人ではなかったということだ。(おじさんでした)